足を踏み入れたのは、大量の雑誌や新聞で埋め尽くされた、通称『雑誌ルーム』。
それぞれ発行された年代はバラバラ。年齢構成もバラバラ。
何故この部屋に一極集中して雑誌類が溜まっている理由は、今もって謎だが、そんな夥しい無数にある中から、とある一枚のちらしの裏に、俄然目を奪われ、しばし呆然と立ち尽くすこととなる。
家主は物を執拗に大事にする、『捨てられない人』だったのかもしれない。
家財道具は一切合財持ち去ったが、溜め込んだ本や新聞は、泣く泣く置いて行かざるを得なかったのかも。
「うひゃあ、すごい さかなの むれだ。」
「これじゃ 前へ すすめないね。 しばらく ストップ。」
「ゆっくり さかなを 見て かえりましょう。」
生活用品もあるが、あってもせいぜい木製の洗濯板。
羽幌町、スーパー石馬場のちらし。良い物を安く売る主婦の店。
現在は『石馬場商店』として営業中のようです。
道民御用達の『北海道新聞』、休刊のお知らせ。
右側の野球少年は『プレイ君』。
ネーミングセンスといい、イラストの素っ気なさといい、これこそ『ゆるキャラ』として当初提唱された意味合いを持つ、本来の姿そのものではないだろうか。
「ゴルフボールが青空に吸い込まれていく」
昭和51年 1976年
労組のカレンダーでしょうか。
「安全を誓って結べ職場と家庭」
『北海タイムス』の昭和45年9月1日号。
『北海タイムス』は、1998年に経営破綻となり休刊になっている。
「田代さん、普通小包が届いてますよ!」
今、この住所宛に小包を出したら、配達員の人は、一応、この廃墟アパートまでやって来るのか。
世界堂のボールペン売り場で見かけるような試し書き。
北海道らしいのは、さりげなくアイヌの儀式『イオマンテ』の一筆。
手作り感溢れる、ガリ版刷りの『園芸市 大特売』のちらし。
この高層アパートにも、園芸を趣味とする人は多かったのでしょうが、これより数十年後、園芸の域を遥かに凌駕してしまい、自宅が密林の中に埋没してしまうとは、住人は勿論、畠山新光花園の経営者も、想像だにしなかったことだろう。
カ メラのお店『はぼろ光学』さんのオープニングセールちらし。
オートフォーカスの一眼レフ、ミノルタの『α7000』が発売になった頃。
『はぼろ光学』さんは現在も営業中で、ホームページもあります。
クロマティや原の名前がある。
巨人から移籍後の駒田を新横浜駅のホームで見たことがある。普通な感想ですが、でかかった。特に肩の張り具合は尋常ではなかった。
自分自身は今ではすっかり野球には興味が無くなったし、世間もそう。
この頃はナイターが毎日ゴールデンタイムで放送をされていて、毎回のように視聴率が20%を越えていた。
羽幌炭鉱の高層アパートは廃墟化し、森に飲み込まれんばかりの荒廃ぶりだし、時代の流れは読めそうで読めないもの。
ご子息は、『羽幌高等学校』に通われていたらしい。
これは時代がかなり古い、トヨタの『コロナ』。
無名の白人カップルの水着カレンダー。
なんとなく、80年代チック。
学研の『科学』と小学館の『小学四年生』。
学研の『科学』を読んでいたのは恐らく、男の子だったのではないか。
『小学四年生』の表紙にはニャロメのイラストがあることから、『万国博ガイドブック』とは大阪万博のことのようだ。間違っても花博やつくば万博ではなさそう。
”70年型ニューデザイン”と銘打った、洋品祭りのちらし。
この頃は炭鉱従事者の羽振りもまだ良かっただろうから、お店も大盛況だったに違いない。
映画『女王陛下の007』の公開は1969年。
この部屋の残された活字達には、一家の歴史が刻み込まれているようで、それらが層のように折り重なっており、手にとって見る都度、歴史にまつわる発見がある。
更に古く、『小学二年生』。
初期タイプの絵柄『ドラえもん』。『いなかっぺ大将』。付録に『光るバルタン星人』。
『スポーツマン金太郎』という、後世には残らなかった漫画キャラクターもあるが、あの『サラリーマン金太郎』は、これのインスパイアだったのでしょうか。
週刊『少女フレンド』。70円。
安い。
『初恋ぽんこつカー』など、面白そうな読み切りマンガもあるが、個人的に知っているのは『サインはV!』だけ。
学研の『科学』だけを見て男の子とは早計かもしれないが、これで女の子は確実にいたといえる。
これはもう揺るぎない、おままごとセット。
なんとなく、この家の家族構成が把握できたなと思っていたところ、あるちらしの裏を何気なく見てみたら、見事な達筆による、暖かい心遣いの溢れる、母から子への伝言を発見する。
子供がまだ寝ている朝早くに仕事場へ行く母。
夕食の残りの味噌汁はどうやら傷んでいるようなので、それを食べずにお茶で食べよと、芯から温まる食事を願う、心遣い、配慮。
どうやら土曜日らしく、昼飯はお金を置いていくから店屋物を頼むようにとのこと。
育ち盛りの子供にカップラーメンではなく、しっかりとした食事を与えたいという、親心が見て取れる。
最後に炊飯器のスイッチを切るようにとの一筆からして、電子レンジはまだ高価だった時代なのがわかる。
やはりこの子供はあの雑誌を読んでいた1970年頃の小学生だったに違いないだろう。
かれこれ数十年、この子供がいい大人になり、昔を懐かしんでかつての我が家を懐かしみ訪ねて来て、この伝言をみたら、どのような思い出、感想を述べるだろうか。
全くの他人ながら、北の山の奥でその昔にあった暖かい親子の何気ない普通の物語に、いたく感動し打ち震えている自分がいた。
北海道の誰もいない、山奥の廃墟アパートの一室で、
あらためて思う。
ひとりで俺は何をやっているのか…
と。
我に返り、興味深げな記事を見つける。
家族にとってショックだったに違いない、羽幌炭鉱鉄道廃止の認可を知らせる、北海タイムス。
そういえば、ファミコン通信を創刊号から相当な数を揃えていたが、バックパッカーとして海外旅行中に、引っ越す可能性があると親に言われ、それならばと旅立つ前に全て捨ててしまった苦い過去を思い出す。
このように、当時としてはゴミ以外のなにものでもなかっただろうが、時代の変化により、歴史的な資料となる場合もある。
創刊号からの『LOGIN』も本当に勿体無かったと、時折頭をよぎる後悔の念。
などを感じつつも、雑誌ルームを後にして、更なる散策を続けるのだが、
その折、別棟で見つけた幾つかの看板。
文言から、先程みたお父さんの日曜大工かと思われた、あの羽幌炭住高層アパートには不釣り合いなデザインのベンチシートの秘密が、なるほどと、明らかとなる。
つづく…
「もうひとつの顔」 廃墟高層アパート戸別訪問、羽幌炭鉱跡.6
こんな記事も読まれています
コメント
コメント一覧 (7)
あきらさん。
炭鉱の閉山後、他の山でも転々と労働者は北から南へ職を求めていたそうですから、ここの家主もそうだったかもしれませんね。
八幡製鉄所、北九州ですか。少しでも良い労働条件を探してのことなのかも。働き盛りだっただろうし。軍艦島の本を読みましたが、端島(軍艦島)の次は北海道だ、なんて文中の労働者は行って、旅立って行きました。
家主さん(お父さん)は羽幌に見切りを付け、単身九州の地に赴き、仕送りをしていたのか?
1970年頃の八幡製鉄所は高度成長の時代背景のもと、隆盛を極めていました。北九州市の人口が最多を記録する数年前です。北九州(八幡、戸畑地区)は煙突が建ち並び「七色の煙」と言われ、公害が深刻さを増していた時期でした。再就職先としては遠い事を除けば良い選択だったかも。何故室蘭、釜石、君津を遥かに越えて八幡だったのかの疑問はありますが。
倉本聰と廃屋の関係は別の記事でも読んだことがありましたが、「昨日悲別で」でも活かされていたんですね。
>やはり廃墟で見つける手紙ってグッとくるものがありますよね
羽幌と倉本聰の見つけた手紙に共通するのは、お母さんが子や旦那の食事を心配をしているということでしょうか。無に帰りつつある廃墟において、手紙とは、人の情念を色濃く伝える一級の痕跡でもありますね。
>P.S. 真冬のあの地への訪問、また駆け足になってしまいそうですが、何とか2月のとある日に実現しそうです。
それはまた、一番雪で覆われている時期ですね。またコメント欄にでも、お話をお寄せいただけたら嬉しいです。
日記とは自分の対話。手紙は自分以外の者への対話。
やはり廃墟で見つける手紙ってグッとくるものがありますよね。
P.S. 真冬のあの地への訪問、また駆け足になってしまいそうですが、何とか2月のとある日に実現しそうです。
現在47-8歳。
羽幌での過去(散らかし&野球賭博)を人事局に知られて窓際族として万年ヒラ・・・は、ねーか。
散らかし放題で炭住を出ていった彼は良い仕事に再就職できたみたいですね。彼その人ではないにしても、一字一句同じでそれっぽいのが凄いです。
http://www.sp.hkd.mlit.go.jp/press/pdf/16082401.pdf