万字小学校 正面
 万字には、国鉄の万字線が赤字で廃止になる直前に訪れたことがある。終着駅の万字駅で降りたと思ったら、そこは一歩手前の「万字駅」。慌てて線路の上を走って「万字炭山駅」まで折り返しの汽車を追いかけた、あの日。

 東京から来た少年にとって、線路の上の枕木を自分の足で踏みしめるという経験は初めてのことであり、終着駅の物悲しさとも相まって、記憶に深く刻み込まれた、忘れえぬ思い出の地である。

 その鉄道好きで無垢だった少年が、年月を経て、”廃墟探索者”として、二たび、岩見沢の栗沢町、万字に降り立つことになる   

 ちなみに、僕は東京生まれの東京育ちですが、北海道では電化が遅れたということもあるのか、電車ではなく「汽車」と皆さん呼んでいます。なので北の大地の雰囲気を保つためにも「汽車」と表記しています。


万字小学校 標識
 かつて万字炭鉱で栄えた山奥にある万字へは、夕張方面から車で向かう。原付き免許も無かった鉄道少年の頃には、考えられないルート編成をもって臨む。

 次第に道路沿いには、万字線の軌道の痕跡やら、標識などが姿を見せる。



万字小学校 廃屋
 鉄道施設跡と思われる瓦解した建物が所々に散見される。

 途中、小学生の女の子が店番をしているリンゴ農家のお店で、もぎたてのりんごを購入。そこから少し走ると今度は規模のでかいフルーツランドがあった。その昔には知る由もなかったが、万字はりんごが特産のようだ。もしかしたら、炭鉱が閉山となり、万字線が廃止になった後、地元の産業としてりんご作りを推進したのかもしれない。りんごは歯ごたえがしゃきしゃきとしていてみずみずしく、甘く、非常に満足感のあるものだった。レジャーランド構想をぶっ立てて大崩壊を起こした夕張と違い、万字町は質素ながら着実堅実に地場産業を育てていると見受けられた。



万字小学校 石碑
 万字線に乗ってやって来たその昔、終着駅の先に小学校があるなんて想像もできなかった。折り返しの汽車に乗り遅れてしまったので、駅周辺を散策する時間はあったが、駅前には個人経営の何でも屋さんがひとつだけ。乗客が乗って行ってしまったので、自分以外のひと気は全く無し。お店の壁面には当時でも珍しかった、三木のり平のオロナミンCのホーロー看板。しかも隅に黄金バットのイラスト付き。店に入ってお菓子でも買おうと呼んでもでも誰もいないのか反応無し。仕方ないので少し歩くと寂れた炭住があるものの、とにかく人がいない。気配も無い。死んでしまった街、それが当時の僕の万字に対する印象だった。

 

万字小学校 校名
 何時しかの少年が野暮ったい大人となり、なんの因果か、再度この地へ、廃小学校を探索に来るとは、わからないものである。



万字小学校 鏡
 只今、お昼すぎ、静寂に包まれた万字小学校。侵入開始   

 入り口付近にあった卒業生より寄贈された鏡。昭和44年。まさか彼等も、数十年後に映し出されることになるのが、廃墟化した校舎と残骸、それらを嗅ぎまわるワークウェアを着込んだ一見すると不審者の”廃墟散策者”とは、夢にも思わなかっただろう。

 せめてもの礼儀として襟を整えてから、敷居を跨ぐ。

 

万字小学校 廊下
 パースぺクティブの効いた、何時床が落ちてもおかしくない廊下。
 


万字小学校 黒板
 昭和十九年
 卒業生一同

 十月十四日
 母校を訪れ
 涙して校歌を
 
 斉唱す   

 卒業おめでとう


 黒板に書かれたメッセージ。この言葉が残り続けているということは、廃校となるにあたっての最後の卒業生に向けて、かつてのOB達が馳せ参じ、ラストメッセージを記して行ったということか。



万字小学校 太鼓
 積み上げられた太鼓。この街にも、鼓笛隊の演奏が響き渡った日があったということ。



万字小学校 幕
 一年を通して屋内にいることの多い北海道。幕の向こうでは、万字音頭や万字体操、果ては松山千春オンリーの物真似大会が催されたと、内地人の僕が勝手に想像する。



万字小学校 理科室
 七輪がある。理科室のようだ。珪藻土で作られた昔ながらの製法による七輪は現在も入手できる。こちらは同じ型によるものかもしれない。





万字小学校 椅子
 最後方に陣取る不良グループが角度を変えたのか、小学生用にしては奥へと傾斜し過ぎている椅子。



万字小学校 図書室
 あまり数多くはない蔵書を誇る図書室。

 更に進み行くと    羅列された性教育用の秘蔵カラースライド、美少年のピンナップ、発狂顔の剥製、それと、例の綿密に練られ過ぎた、校内肝試しの痕跡などを、校内四方跋扈駆けまわることで、見出すことに成功する   


つづく…

「万字恐怖地図」 廃墟、万字小学校駆け巡り.2 

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