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 この日の日記の出だしはなんと 『今日でさいごの修学旅行でした』 だった。

 あれほど読み手に期待を持たせておきながら、「道中の話を端折る気かい!」と、時空を下り、”ツッコミ”を入れたくもなったが、どうやら、修学旅行を終えて帰宅をした夜中に、一気にまとめて”語り尽してやろう”という彼女なりの算段だったようだ。旅行中は相部屋だろうしドタバタしていて、そのひ一日を振り返って毎晩日記を書く暇などなかったに違いない。

 日常のお手伝いとして、牛ぼい(牛飼い)を担わされている中学三年生の彼女。もしかしたら遠出の旅行なんかは初体験かもしれない。今わかっているだけでも、キョーコさんの家には牛や複数の猫などの動物がいる。もしかしたら馬や豚も所有している可能性もある。親は酪農や畜産を営んでいるようでもあるし、家族揃っての長期旅行は到底無理だろう。

 海外旅行はおろか、道外、下手をすると自分の街さえ出たことがなかったのかも。そんな彼女が大きな期待を膨らませる、修学旅行。行き先は、時代背景からして海外はまず無いとして、豪勢に京都・奈良の古都巡りなのか、それとも、「汽車が全部電気で走ってる!上り坂で黒煙吐かないべさ!」とカルチャー・ショックを受け続けること必死の、東京お上りさんツアーなのか。あるいは、北海道における公立校の慣例のようなものがあり、中学生では道内に限定されてしまうのか。

 気になる行き先と、そもそも、観光という行為自体が未経験かもしれず、新たなる領域へと踏み込もうとしているかもしれないキョーコさん。牛ぼいの行為こそが、僕からすれば、一生忘れえぬ観光体験のようなものだが、彼女と、似通っている生活形態だろう同じ中学の生徒達にとっての、旅行体験とは、非日常とは、果たして、一体どんなものになるのだろうか。まさか、ラベンダー畑に行って、新鮮な牛乳を飲み、乳搾り体験・・・ てことはないだろうが   

 1978年、北海道のとある中学三年生の”つまびらか”な修学旅行の実態が、崩壊しかかった廃屋の残骸物の中から、今、再び陽の光を浴びて、蘇(よみがえ)ろうかとしている。



26-1s
 1978年 (53)   5月26日   (27日 . 0:5 くらい)

今日でさいごの修学旅行でした.
まず 23日目のことを すこし ・・・・ 。
  23日目は . 6時すぎにおこしてもらった . いや !
6時前に起こしてはもらった. ただ自分はすぎ に起きたのだ
そして朝 . 行間辺 、並木 . 東並田へと生き . こうみんかんへ
登別に向かって発車するのだが . まず////////////////////////
種田 こう民かんに集まる . 5校 . そして先生のしょうかいや
お話しをし   1号車には . ドライバー 浅川さん (41才)
ガイド は 宮崎さん(19才 . これはとてもしんじられんがね!)
行間*辺 . 皆府川 .種田が のった .   2 号車には、
東並田 . 並木が のつた . そして 発別へ向かっていった .
そこで  じごく谷をみてきて .そのちかくにある ホテルにとまった.
皆府川 と 行間辺 が いっしょだった. へやで夕食 をとったが
夕食の来るのがおそかった すごく (このはやだけではない ほんとだ)
私としては 第一日目で ありながらとても おもしろくない修学旅行
だったと思った.  その 理由は . は皆府川 が おもしろくないと
いって こっちまで いやな気ぶんになったからだった .
でも今ではよいおもいでだ やはり 修学旅行はおもしろいと思う
朝の6時に親か兄弟に起こしてもらったのに、自ら起きたと言ってはばからない彼女。もう中学生なのだから、自立しているのだと胸を張りたいところだが、いまだに朝の起床さえままならない未熟な人間であることを、自虐的にかつ簡潔に表現をしている。

行き先は、まずは「登別」へ。

そして、驚きの、”五校合同”の修学旅行開催だった。

身体検査でも複数地域の中学校生徒が近隣で一番大きな中学に集められて合同でやっていたようだが、まさか、修学旅行までそうだとは、ちょっと想像もできなかった。ベビーブームのこの頃、東京だと一クラス50数人前後生徒がいたかと思われるが、内地より津軽海峡を隔てた遠く離れた北海道のこと。エネルギー政策の転換期ということもあってか、人口流出による過疎化の波はキョーコさんの地域にも影響を及ぼしていた。一クラス数人規模ぐらいだろうか。

一号車のドライバーは浅川さん。当時41歳。今はもう定年退職しているだろう。バスガイドさんは、宮崎さん。十九歳。現在もお勤め中なら、古株の教育係にでもなっているかも。キョーコさんは「これはしんじられんがね!」と、自分とそれほど変わらない、ガイドさんの若さに驚いているようだが、バスガイドさんに関しては、高校を卒業してすぐ配属されるような環境が、現在でもそう珍しくはない職場であると思われる。

この文面から察せられるのが、キョーコさんの土着主義から来る帰属意識の高さ。

他校の生徒達の呼び方、認識の仕方が、地名になっている。それぞれの人格やなりを、まるで地域名で区分けでもしているようだ。

「関西人は金に人一倍執着心がある」とか、「行間辺」は衛生観念が低いとか、「皆府川」は甘いもの好きだな、といった、血液型占いにも通じる、雑多な人種構成を一緒くたにしてしまう極論過ぎる根拠の無い分類。

それはどこから来るものなのか。

人を地域で区別するということは、当然、自分のアイデンティティーも、北海道や市という大きな範囲ではなく、限られた狭い地域、部落などから、由来しているのだろう。本州に比べれば、近年になってから人が入ったという、北海道特有の歴史が、たかだか十五歳の彼女の思想、人格形成に、何かしら特別な影響を与えているのかもしれない。もっともそれは、選民思想のようなものではなく、『私は「行間辺」の人間だから、食べてばかりいる』といった、まだ可愛げのあるものだ。

>その 理由は . 皆府川 が おもしろくないといって 
>こっちまで いやな気ぶんになったからだった
 
自分は大いに修学旅行を楽しんでいるのに、他地域の人間が露骨につまらないと吹聴するものだから、気分を害するキョーコさん。登別の地獄谷はいまいちだったかもしれないが、前向き思考の彼女は、ネガティブな表現で周囲の人間を暗い気持ちにさせるようなことは決してないみたいだ。



26-2s
次の日    24日  小たる へ 向かう
洞爺湖で*ゆうらん船で 中の島 の まわりを 見て まわった。
てつのむろらんも 見た 球場の 170倍 もの広さだそうだ 。
そして おたる水ぞくかんにも 入った。 いろいろなお魚 がいた。
そのおたる水ぞくかんの すぐ 上 の方にあるホテルに
とまった.  種田 . 皆府川 .行間辺 の 12 人で ひとへやだった。
この日は 種田の人 が とても オモ シロ イ 人たちだったので
たのしかった .  そしてまた 次の 日 25日は
小たるからさっぽろ へ と 進んだ . 円山動物園 に行っ
て動物を見て . へんなのりものみたいなものではないが
かわったものに のって とても 死ぬおもいを した . しかし
すごくおみしろかった . あと もいわ山にいった . ほんとう
は. ロープウェイ に のるはずだったが . バスで頂上まで
きてしまったのら . あと 100ねんきねんどうに行って
そのきねんとう の3分の1くらいまでのぼった . (それ以上はいけなかっ
たから ) そのあと . きねんかんに入った . 日本の歴史的なものが 
昔から今へと かざられていた . 
さしたる思い出を作れなかったのか、登別についての言及は極めて少なめ。中学三年生にはまだ温泉の魅力が伝わらなかったみたい。

洞爺湖での遊覧船観光も、ほんの一行。僕もそうだったが、お寺などの観光名所より、自由行動でこんなことをしただとか、夜に人目を忍んでやらかした話しなど、後々記憶に残るのは、人絡みの話題であるのは、今も昔も変わらないと思う。

「てつのむろらん」を見たとは、工場を見学したのだろうか。球場の170倍ということは、おそらく後楽園球場のことだろうから、それに匹敵するのは工場施設ぐらいしかない。工場見学ブームの今ならともかく、当時なら中学生にとって、さぞ退屈だったことに違いない。この内容だと、どちらかと言うと、社会科見学ではないのかという気もする。地域格差はどうしても生まれてしまうとはいえ、東京の中学生が京都などへ行っている頃、キョーコさんらは錆びた室蘭の工場を見せられていて、同級生同士で不満などを言い合わなかったのだろうか。

小樽へ行っても、当時はまだ運河が観光地化されていなかったこともあり、斜陽した暗い町として、彼女の目に映ったのではないか。だから感想も極めて淡白。

「いろいろなお魚がいた」 のみ。

小樽で宿泊をしたのは、おたる水族館のすぐ上だという。現在、それに当てはまるのは「ホテルノイシュロス小樽」か。少し調べたところ、1968年には既に存在していたことが確認できた。ただ、火災により建て替えられていて、今では中学生が団体で泊まれるような感じのホテルではなくなっている。

>種田 . 皆府川 .行間辺 の 12 人で ひとへやだった。 

学校側も配慮をしているのか、他地域の生徒同士を一緒の部屋へ入れて親睦を図ってもらおうという、意図的な部屋割りになっていた。一部屋、一地域から四人、計十二人。

種田の人達がオモシロイという、これまた、出身地域原理主義者的発言が飛び出す。

25日には、いよいよ、札幌へ。

円山動物園に行って「かわったもの」に乗って死ぬ思いをしたらしい。もしかして、札幌は初めての訪問で、遊園地も生まれて”初”だったかもしれない。現在、円山動物園の遊園地は廃止されてしまったが、当時のことを調べてもそう過激な乗り物はなかった様子。普段、大自然の中で牛ぼいをしている少女が、札幌くんだりまで連れだされて来てしまい、乗ったのがたとえそれがミニコースターだったとしても、酔って死ぬような思いをしてしまうのは、致し方ないことなのか。
  


 彼女の筆の勢いが止まらない。

 前半は社会科見学のようなプログラムに対しての、静かなる抵抗というべき、ともすれば、画一的機械的な記述に終始していたが、これからは、女子中学生の生々しい、生態、思春期の男女人間模様を、臆面もなく、大胆に書き連らねていく。

 札幌での自由行動では、なんと、先生からストーカーまがいの行為を受け、普段見せたことのないような激しい憎悪をみせる。彼女の吐き捨てた一言が衝撃的だ。

 デパートで購入をしたある「モノ」は、少女から女性へとなるにあたり、実に象徴的でもある品だ。牛ぼいに精を出していたのは、このことがあったからなのではないかとも推測できる。

 深夜に、トランプをやろうと、男子の部屋へ単身乗り込んだのは、キョーコさん、その人自身だった。

 カードゲーム、男女間の駆け引き、今まさに女になろうかという彼女の行動は益々エスカレートしていき、感情の濃密な描写は、延々と、止めどなく、はじけるように、字数が加算されていく。

 もう一歩踏み込んで読んでみたところ、”あの”青春の甘酸っぱいポエムは、合計2ページもの長きにに渡って、記されていたことが明らかになった。

 ここまで燃え上がりもした青春の熱き一ページを、なぜ彼女は、廃屋へと残したままにしたのか。

 深まる謎に懊悩しながらも、祭りの屋台で宝物を紐で手繰り寄せるような、極めて困難ながら、でも愉快で楽しくもある、この負わされた宿命の泥沼に、今宵も没頭せずにはいられなくなってきてしまう。



つづく…

「少女を女にさせたお土産」 実録、廃屋に残された少女の日記.8


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