白鳥湖ホテル ゲートボール
 建物自体は、いつ倒壊してもおかしくないような傷みをそこかしこにみせているのに、看板だけはやけに新しい。

 雪が積もろうが、雨が叩きつけようが、全天候型の「室内ゲートボール コーナー」内にて、かつてご老人達が、スティックを元気にブンブンと振り回し熱狂をした、”宴のあと”を覗き込んでやろうと、見るからに底が抜け落ちそうな板敷きの体育館のようにも見える併設施設内へと、丁寧にゆっくりとつま先の一点から足を下ろし、次第に荷重を後方へ移動させ、音もたてずに踵を床にのせ、それができたら、離陸するようにまた、もう一方の足のつま先の一点より足を上げる。数度の繰り返し。板の沈み込みを把握しながら、間合いを持って、無音で躙り進んで行く。

 強度は問題ないかに思えた。

 

白鳥湖ホテル 室内
 真新しさの残る看板に反して、荒廃して砂埃にまみれ汚れた、ゲートボール場の面影が微塵も残っていない、機械を買い取り屋に持っていかれた後の、廃工場のような光景。



白鳥湖ホテル 消化器
 鳴り物入りで、「屋内ゲートボール コーナー」を始めてみたものの、恐ろしいほど集客効果が無く、慌てて卓球場に転換。もしくは、元の卓球場に戻したとか。



白鳥湖ホテル 卓球
 ゲートボールは、北海道の芽室町が発祥の地。北海道由来のスポーツであり、経営がひっ迫した中での起死回生の一手を狙った、白鳥湖ホテルのオーナーの選択肢としては、なにも唐突というわけでもない。

 北海道中を旅行してみて、特にゲートボールが盛んにプレイをされていたという印象は、あまり受けませんでしたが。



白鳥湖ホテル 窓
 欧風スタイルの王宮風呂。町の変わり者がリサイクル品で作ったような、遊園地。屋内ゲートボール場   

 その結果が、目の前の惨状であるとしたら、自業自得としか・・・



白鳥湖ホテル 机
 キオスクみたいな売店もあった、規模の大きいホテルだった。



白鳥湖ホテル 電話
 館内電話で部屋の仲間を卓球場へ呼ぶ。黒板に点数を表記する。

 ホテルの周囲には町や店が皆無。陸の孤島。夜などは卓球ぐらいしか余興がなかったのだろう。



白鳥湖ホテル 食堂入り口
 卓球で汗をかいた後に、食後の運動にと、動線だけはしっかり確保していた様子。



白鳥湖ホテル 成吉思汗
 もう一つの呼び物か。ジンギスカンのコーナー。

 以前、内モンゴル自治区の、”フフホト”へ行ったことがある。モンゴルへ行こうと思えば行けたが、途中で知り合った旅の達人のような人から「内モンゴルもモンゴルも大して変わらないよ」と聞いていたので、旅に疲れていた僕は、手早くモンゴル経験を済ませようと、フフホトへ向かったのだった。

 フフホトの安宿のドミには、岐阜から来たという、作業用品を自社生産して販売もしている会社の社長の息子がいた。とある岐阜の駅からは、彼の父の会社の自社ビルが見えるとか。将来中国に工場を建てたいので、視察がてら観光に来たのだという。

 岐阜の会社の息子とは、相当仲が良くなったものの、一緒に乗った満員の列車内で、一時ながら、旅や中国人に対して僕が不満を溜め込んでいた時期ということもあり、自分で思い出しても嫌になるような、醜態を見せてしまい、彼から嫌われて愛想を尽かされ、住所交換もせずにそれっきりという、苦い思い出を持つ。

 列車内で僕の横に座っていた岐阜の彼が立ち上がり、中国人の若い女性に席を譲った。普段から列に並ばないし、公共のルールを無視するような中国人に、例え若い女性とはいえ、席なんか譲らなくてもいいのではと、不満タラタラな僕は、横に座ってきた中国人女性に対して、露骨に肩を寄せて体重をかけ押し出そうとする、陰湿な嫌がらせをやり続けてしまう。通路はぎっしりと人が立ち、その中には女性の恋人である男性もいて、険しい顔で彼は僕を睨んでいた。中国旅行に疲弊していたその時の僕は、いっちょやったろうか!?という気でさえいた。それまでは、僕の旅行話に目を輝かしながら聞き惚れていた岐阜の彼だったが、以降、会話は表面的な挨拶程度しかしなくなり、かつ、曇ったような蔑んだ目で終始見られ続け、完全に彼の信用を百パーセント、失ってしまった。

 もう一人日本人がいて、最初は職業を言わずにはぐらしていたものの、しつこく聞くと、九州の方で芸術家をやっているとのこと。どんな内容なのかを尋ねると、一例として去年やったのは、大凧に太い筆で文字を書くという活動をやったと言っていた。顔は小顔でキリッとしていて、渡部篤郎に似ている、ストイックでいかにも芸術家肌といった感じの男だった。
 
 九州の芸術家の彼が、ドミトリーに、知り合いになったという、日本語ペラペラのモンゴル人ガイドを連れて来た。そのガイドは、これぞ”モンゴロイド”といった顔形をしており、江川卓にそっくりの顔。日本に行ったら間違えられるほど酷似している。というより、フフホトの街中にそのような顔がうろついていて、『また江川だよ・・・』と吹き出しかねないほど。

 江川似のガイドはとても信用のおける人だった。僕を含むドミの三人で、草原のパオへ泊りがけのツアーに行った時のこと。岐阜の息子が馬に乗るオプションで法外な値段をふっかけられた時、声を枯らして江川似のガイドが現地の人と戦ってくれた。「これから日本人以外にも外国から大勢やって来るのに、人を騙すような商売をやっていては、自分で自分達の首を絞めるようなものです!」と、正義感をみなぎらせていた。

 フフホトで大方のものは見物し終わり、あと旅立ちまで数日かなと、岐阜の息子とドミで雑談をしていた時、九州の芸術家と、江川似のガイドが、話があるとやって来た。

 ガイドが実家のモンゴルに里帰りをするというのだが、すっかりガイドと意気投合をした九州の彼も、一緒についていくとのだという。聞けば江川似のガイドの家は、とんでもない僻地にあり、途中から馬に乗って一週間ぐらい歩かないといけないような、砂漠のど真ん中にあるという。

 九州の芸術家の男は、「めったに経験できないことだから、僕は当然行きますが、良かったらお二人もどうですか?」と、それまでは芸術家に自己陶酔しているかのような、始終落着き払った態度だったのに、うって変わって晴れやかな顔になっていた。

 モンゴル人のガイドの説明によれば、馬は一頭だけなので、そこに荷物を載せるから、皆本当に行くなら、砂漠を全員で一週間ほど歩くことになるとのこと。興味深い話としては、途中に考古学者などにも発見されていない、江川似ガイドの近親者のごく僅かにしか知られていいない、古代からの手付かずの遺跡が砂漠の中にあるのだとか。遺跡の中には、宝物らしき装飾品がまだ結構な数残っていて、一つ二つぐらい記念に持ち帰るなら、全然OKだという。

 なんとも、ロマンがあり、魅力的な話であった。が、まず、岐阜の社長の息子が、会社のスケジュールがあるから難しいと、断る旨を申し出る。僕はその返答を半ば予想していた。彼は安宿をわざわざ予約していたり、会社の何年後かわからないような視察だったりと、画一化された行動を常にフフホトでもしていて、予定調和を壊してまで、モンゴルまでの冒険のような大それた旅行にはとても行かないだろうと、僕は思っていた。事実、その通りであった   

    あの時を振り返り、僕はいつも想うことがある。もし、行っていたなら、お宝の一つや二つでも手に入れ、岐阜の社長の息子とも一生涯の親友になり、人生がその時点から変わっていたのではなかろうかと。北海道の廃墟をうろうろ一人で彷徨っているようなことは、なかったのではないだろうかと・・・

 北海道の地で、「ジンギスカン」の文字を見る度に、あれはもしや夢だったのではないかという、人生の分岐点を、時折思い出して、目頭がほんのりいまだに熱くなってしまうことがままある。



白鳥湖ホテル リボンオレンジ
 子供の頃からの道民の喉を潤し続ける、リボンオレンジのロゴマーク入り、冷蔵庫が。



白鳥湖ホテル 標語
手を洗い 身なりキチンと サッパリと

 

白鳥湖ホテル 成吉思汗コーナー
 成吉思汗コーナーの室内。

 間仕切りは倒され、角材は転がり、乱雑に物が散らばる室内にて、規則性をもって配置されている残留物を発見する。



白鳥湖ホテル 将棋
 かなりの暇人か、サイコパスか。同僚である”廃墟探索者”か、サバゲー愛好家か。



白鳥湖ホテル 畳
 阪神タイガースのマークに見えないこともないが、彼が侵入した時は「雨」だったのでしょう。



白鳥湖ホテル 自販機
 ジンギスカン系の廃墟に行くと、必ず口臭予防のタブレットとかの自販機がありますね。ジャケットを包む袋の自販機を設置すればと、ふと、思いつく。



白鳥湖ホテル 外
 結構な原型を保っていたかに思えた「白鳥湖ホテル」だったが、完全崩壊への序章はもう、このあたりから着々と始まっているようだ。



白鳥湖ホテル ジュークボックス
 幻想的な大宇宙空間を前面パネルにあしらい、サイドには重厚感のある家具調ウッドパネル。

ROSAMUNDE

 このジュークボックスは、1969年のビクター製、「JB-2800」。真空管ではなく、当時の最新鋭技術”トランジスターアンプ”を採用した、国産の高性能機モデル。

 現在、中古で稼働するものは、50万円ぐらいで取引されている。



白鳥湖ホテル 曲
榊原郁恵 「夢みるマイ・ボーイ」 (1980年9月1日)

松崎しげる 「愛のメモリー」(1977年8月10日)

フランク永井 「おまえに」(1977年)

郷ひろみ 「お化けのロック」(1977年9月1日)

ピンクレディー 「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月5日)


 楽曲のほとんどが1977年に集中していたが、榊原郁恵のは1980年。

 白鳥湖ホテルの最期は、1980年頃と見る。



白鳥湖ホテル 破壊
 破壊の限りをしつくされ堆積した瓦礫の山を登り、外へ出ることも考えたが、足場の不安定さを考慮し、踏みとどまる。



白鳥湖ホテル 振り返る
 来た道を振り返る。



白鳥湖ホテル 暗い
 気が滅入るものの、閉ざされた光の届かない建物内の探索を最優先することに   



つづく…