殺人事件のあった公売物件の豪邸に行き、そのままに散らばる残留物を丹念に検証をした時も特にあれこれと感じたことはなかった。その殺人事件は未解決のままであり、怪しげな何かを包んだホイルを密閉した瓶入れなどが庭にまだ転がったままであったが、好奇心が上回ってしまい、不謹慎ながらも、それをつまみ上げながら写真に撮る時にはにかんだ表情を抑えられないでいるのが、自分でも嫌というほどよくわかった。
殺人事件があった公売物件を見に行ってきた
とはいえ、北の大地の静まり返った森の中の廃墟ラブホテル、自殺のことを知っていたら、一人でわざわざこんな淋しげな階段を登って行っただろうか。
一見すれば、シティホテル風。壁側面に横倒しの長い足のブラウン管テレビを見れば、ここが昭和からの純然たる連れ込みを目的とした、古いラブホであることが推し量られる。
適当に入ってみる。
最近のアパのようなビジネスホテルだと、あぐらもできないような狭さのユニットバスだったりするが、ここは比較的ゆったりとした広さを誇っている。
最も値段の安いタバコ「エコー」。
ホテルの客層は、お金の無い学生や、親元で暮らしながら働く、二十代の若者あたりか。
ベッドの上に置かれていた雑誌「投稿写真」。1987年9月発行。表紙は島田奈美。おニャン子クラブが解散した年。
こんなものを読むのは中高校生ぐらいだろうから、既に廃墟化したリリに少年がひとりで忍び込み、家では恥ずかしい雑誌をベッドの上で存分に堪能し置いていったのがそのまま残されているというのが実際のところだろう。
昭和62年には既に廃業をしていたらしいという信憑性の高い痕跡を発見。
すぐ隣の部屋にも入ってみる。目ぼしいものは無く、トイレ・バスもありがちな対称配置。
さすがに、汚物入れを覗くとか、そこまでの異常性は持ち合わせていない。
陰気臭い室内配色や設備ばかりだが、それでもほとんどが洋風なのに対して、あそこの部屋辺りだけは、なぜか純和風。
遠目に、先程のブラウン管テレビ。
二階の端もこの状態なので、遅かれ早かれ、建物全体の崩落はそう遠くない先に訪れていたはず。
この一画だけが、空気と色味が違うのは、単に和風だからだろうか。
おそらく営業当時、在室の場合は、「うめ」のプレート裏にあるランプが光っていたと思われる。
「うめ」部屋に入ってまず目に入ったのは、今はなき「サンヨー」の計算機や、晩年の頃の石原裕次郎の広告が掲載されている新聞。
昭和56年度通常総代会議案。
タイル風呂のモロ和風。
ここまで意味の無いカットを撮る人はあまりいないでしょう。
もう更新は終了をし、あまりアクセスのない廃墟ブログで、とある喫茶店のマッチ箱だけを大写しにして「喫茶店✗✗」とだけの淡白な説明に、なぜか可笑しくて夜にひとり、部屋で大笑いをしてしまったことがある。そんな小さな情報まで拾い上げてたら、キリがないだろうし、そこまでやらないと人は認めてくれないのかよと。
それ以来、模倣というか、細かい物撮りをするようになり、喫茶店のマッチ箱のカットも何度か撮ったことも。
そんな廃墟道に足を踏み入れた頃のことを思い出し、あの時は葉書一枚発見しても心ときめいていたなと、物思いに耽っていると、生々しい温もりさえ伝わって来るような残留物を前方に捉える。
孤独に死を覚悟した人が、最後の朝を迎えた、床。
布団を寄せ集めたとはいえ、どれだけ寒かったのかは想像に難くない。11月上旬の車中泊でさえ、朝起きれば、フロントガラスは霜で覆い尽くされ、白い息とともに、ヘラで削ぎ落とすのが日課となるぐらいだ。
おぼつかない足取りにて彼が向かった先は、ボイラー室だったという。一階はほとんどがフラッシュの必要な暗所であり、僕もそこへ行ったのだろうけど、シャッターを押すような情景では無かったことは確かだ。
彼が最後に目にしただろう、一冊の雑誌が残されていた。
センシティブだ。
廃墟で浮浪者が滞在した痕跡を見つけるのは毎度のこと。朝起きて通勤をしなくてもいい自由気ままなホームレスが一体、どんな顔でこの言葉を見て感じたのだろうかと、僕はもしかしたらそうとでも考えながら、シャッターを押していたのかもしれない。
その時は何も知るわけがなく、一通り写し、カビ臭い部屋だなぐらいの感想だけで、邪魔者と遭遇もせず平和裏に終わったと、ただ部屋を出て行った。
その後、残念ながら、廃墟ラブホテル「リリ」は多くのそれがそう運命づけられているかのように、失火により焼失。
今現在、コンクリートの基礎部分が森の中の跡地に僅かに残るだけとなっているようです。
おわり…
こんな記事も読まれています
コメント