川崎不法占拠
 一部は撤去されたものの、川崎のとある河川敷にいまだ残る、在日朝鮮人の方による不法占拠部落。

 子供の頃、狛江市付近の多摩川の土手ではよく遊んだものだった。河川敷には五本松と呼ばれる、その通り五本の松が植えられていて、映画撮影所が近いこともあり、その松の下では行けば必ずといっていいほど、時代劇の撮影をしていた。いくつかの家族同士で訪れれば、ベーベキューの定番スポットでもあったので、肉などを焼いてささやかな市民の喜びに興じていると、大概後から撮影隊が来て、場所を譲る譲らないで、親たちが撮影の人達と揉めるのを、いつも僕は呆れた眼差しで遠くから見つめていた。

 住宅環境が異なるからか、当時でも狛江付近の多摩川土手べりにはホームレス小屋はあったかもしれないが、まとまった不法占拠集落のようなものは無かった。

 川崎の場合は近くに工場があるので、戦中戦後と、工場に動員された朝鮮人の人達がコミュニティを形成して、給与面で決して厚遇をされていなかった彼らが、自然と河川敷の空き地にバラックを建てていったのでしょう。好意的な表現をすれば、肩を寄せ合って。新大久保に在日朝鮮人の人が多いのも、かつて新宿の百人町にロッテの工場があったり、歌舞伎町に通う在日のホステス達が、通勤に便利で安く借りられるアパート物件が多い新大久保に目をつけたことによるものであり、川崎と理由が遠からず似ている。

 戦後のどさくさのなかで必然でもあったのか、しかし今の時代にこういったものがずっと黙認され続けられるわけでもなく、気がつけば、開発の波がもう間近まで迫り、いよいよ全解体されてしまうのではないかと、ちらほらそんな話も聞こえてくるので、その終末を見届けようと、現場へ行ってみることにした。



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 川崎駅から歩いて来たがその変貌ぶりに驚いた。

 以前、カミソン君が川崎の多摩川河川敷で遺体で発見されるという、痛ましい事件があり、彼のために手を合わせてあげたいと、現場まで赴き記事にしたのが、たかだか三年前のこと。

【読んでおきたい】川崎中1殺人事件の現場へ

 三年前でも、駅周辺は以前より激変はしていたが、駅を少し離れれば、古い木造長屋があり、その玄関前には大量のママチャリが停められ、老いた日雇い労働者の街といった感じであったのが、ヤバめの小屋や風俗の店は一掃され、コンクリートで完璧に整備され、リバーサイドには、人工の防風林でも建てているのかといったぐらいに、タワマンがズラリと並んでいた。

 そのタワマンは、駅から、今回訪問する、戸手四丁目の手前まで、ぎっしりと、まるで、刑務所の壁、というのは大袈裟かもしれないが、それでも、異様な光景である。

 その高層マンション群のどれもが、一昔前の平壌市内に建っていたような、地味なデザインの建物なのである。中国地方都市の貧民用高層アパートのような。まさか、同じデベロッパーではないだろうし、公団ではなくて民間の物件だろう。もうちょっと曲面を活かした、まともなデザインはできないものなのか。

 お婆さん二人が散歩をしながら「あんなマンションに住みたいねぇ」と言っていたが、果たして、あんな壁みたいなマンションに住んで、幸せだろうか。住めない者の僻みとかではなく。建っている土地は河川敷である。大きい地震でもあれば、液状化で傾きそうであり、北海道のこともあり、他人事ながら心配になってくる。



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 通り沿いの猥雑な建物を全て片付けて、整備された上に建つタワーマンション群の前の整然とした道を川崎駅から歩いて行く。途中から土手を歩いた。

 まもなく土手は、寸断される。

 簡易だが厳かな柵で土手の小道は行き止まりになっていた。

 後方から来た自転車は、マンションと柵の間の小道を左に折れて行った。道路に出るのだろう。

 僕は土手を降り、柵を遠く避けながら川沿いを歩いた。



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 河原には鉄柵が張り巡らされ、さらに壁で囲ってある。壁の中には、工場と集落がある。



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 不法占拠の敷地内からでなくとも、この教会は河原から眺められる。

 韓国内の宗教人口は、仏教よりキリスト教の信者の方が多い。僕はロスやニューヨークに住んだことがあるが、韓国系の教会は現地にたくさんあって、韓国系の人から日曜教会に行こうとよく誘われたものだ。



川崎不法占拠
 人の気配は無いが、日曜になると信者さんがやって来るのでしょう。



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 テレビドラマ「岸辺のアルバム」の題材にもなった、多摩川の堤防の決壊、ここは無事だったのでしょうか。



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 河川敷の不法占拠部分を避けつつ通り越し、岸辺を進み、道路側に行ってみる。

 土手より下の川側、水害時に危険な河川敷に集落が建てられていることがわかる。

 不法占拠の集落内に入る前に、ここからさらに徒歩十五分、昭和どころか、大正時代で時間が止まっているようなスーパーマーケットがあるということなので、そっちを先に行ってみることにした。



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 道路からは一区画中に入った静かな住宅街にあった。

 アーケードの商店街だが、ほぼシャッターは閉じられている。

 名前は「小向マーケット」。



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 当時は、何でも揃うマーケットだったようです。

 褪せた万国旗で意地でも盛り上げてやろうというその心意気が、かえって物悲しさを誘う。

 いや、ただの惰性なのかもしれない。



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 ほぼ八割がデッドスペースなのに、これをそのまま保存しておくのは、何かまだ展望を持っているのか、往時の賑わいを後世に伝えたいとの、オーナーさんの秘められた思いがあるのか、どちからではないだろうか。



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 無理に塗ったりしないのが一番。敬服に値するぐらいそのままの状態。



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 書きかけの砂絵ぐらいまでに判別不能に。



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 通り抜け出来るアーケード商店街。僕の入って行った方は、裏だと思う。

 裏口の頭上壁面の壁。



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 緊急時にも迷うことなんてないだろうけど、消防法で取り決めがあるんでしょう。



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 まさか、めぞん一刻のアニメ放映時から  1986年(昭和61年)3月26日から二年間  貼ったまま!?



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 子供がキャッキャ叫びながら、アーケードの直線でかけっこをしていた   あの日  



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 風化っていうのは、こういうもんだと、身を挺して説明してくれている、看板。



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 地方の寂れた商店街にはよく行ったが、大抵酷い壊れ方をしているものなのに、それが無い。

 風合いだけが重みを増しているのは、夜はシャッターを閉じて密閉状態になっているからか。営業時も通りから奥まっているおかげで、日光、風雨の影響をあまり受けないと。



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 入り口から二軒だけ営業中のようなので、一旦後方から出て、店の裏側にある住居部を眺めつつ、そちらへ行ってみることにした   




つづく…

「トタンの迷宮」川崎の不法占拠朝鮮人部落に行って来た.2

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