62
 いよいよ明日、抜歯される予定のキョーコさん。あの薄暗い二階屋根裏部屋に一人、いざり寄る歯抜けへの恐怖に両肩を震わせ、おもわず内なる叫びを日記に殴り書きをする。

 抜かれて出血して顎の取れそうな痛みを例え伴ったとしても、あの人と会えれば、そんなこと、なんてことないのか。

 いい加減、彼女も悟っていた。

 もう、一生会えないのだろうと。

 でも「いいっすよ」と、やせ我慢か、照れ隠しなのか、江戸っ子のような口調でもう会えなくてもかまわない理由を、吹っ切れたかのように、ためらうことなく、詳細に説明をする、彼女。

 人間顔じゃないんだ、確かに、山角君のように良い顔だったらそれに越したことはないけれど、気にしないとは言いつつ、何度も何度も、彼の唯一の欠点、残念な顔についてのフォローに余念がない。

 歯の治療を完璧に済ませ、いままでになく、気迫のこもった言葉で、受験に挑む固い決意を宣言する、キョーコさん。

 心の準備だけはすでに整っているようなのだった   
 


29a
  1 978 年   1 月 2 9 日  (月)   (30 )   1:3 6

 今, チ ー サマの オー ル・ ナイ ト ・ ニ ッ ポ ン 聞 い てます  .
 ひさ しぶ り だ わ あ  .  今 日  歯医 者 に 行 っ て 来まし た .
 明 日 歯を ぬ か れる 予定 で す .  イ ヤダ ー   こわ い わ    !
 あ の人 に は 会え ません   ・  もう 見 る こ と は 出 き な い のか な .
 あの 人は も う 歯 医者 には 来 な い のだ ろ う か ,
 い っ す よ  ・  金山 君 * に  気を う つ し ち ゃ っ た も  ん   ・
 金 山君 っ  て  ど う して  スポ ー ツ マ ン で  う た う ま くて . ギ タ ー
 うま く て い い んんで し ょ う ・   顔 は サ ル みたい だ け ど  私 の き ら
 い な 顔で は な い  ・ 私 の き ら い な 顔は あ の  並木 の つ り 目 の人
 あの 顔  大き ら い !  そ れに く ら べ る と 金山 君 の 顔 の 方が ず っ と
 い っ すよ .  それ は 良 い 顔 だ っ た ら  ,  山角君 の 顔が  一  番 良 い
 の だ け ど ・・・・   渡辺 君も  い い 人 よ  ・   スポ ー ツ マ ン だ し
 顔 もまあ, か わ い い 顔 して ん の よ  .  * ま あね ,  金 山 君 が 一 番
 い いの よ  そ うで し ょ 千春   そうで すよね 千春 サ マ ,
 今日 勉強せ んか っ たけ ど  ,  だめね ・ が んば ル ド , ぜっ たい  お ち
ね ~ ぞ !  石 にく い つ い て で も , ぶ らさが っ てで も .  入っ て
 み せる .  気** は まだ そう 考え てな い け ど  

チーサマこと松山千春のオールナイトニッポンを聴いて上機嫌のキョーコさんだったが、明日は歯を抜かれるのだという。

>イ ヤダ ー   こわ い わ    !

軽薄そうに怖がってみせて、空元気で無理をしているのかもしれない。何もこの時期にとは思うが、歯列矯正ではなく、虫歯なのだから抜いてまでして治療を施すしか選択肢は無かったようだ。

>あ の人 に は 会え ません   ・  もう 見 る こ と は 出 き な い のか な .

相変わらず、リーゼントの彼とは逢えないまま。皆まで言わなくとも、薄々彼はもうここには来ないであろうことをようやく悟った、彼女。歯医者とあの草原の中の一軒家との往復ぐらいが今のキョーコさんの全世界といってもいい。北の最果てのような街とはいえ、まだ炭鉱で賑わっていたヤマの予熱がありそうな時代、活気ある街中で偶然に彼とすれ違うことなど、よっぽどの奇跡が無い限りあり得ないだろうことはキョーコさんにさえ容易に想像できた。

>あの 人は も う 歯 医者 には 来 な い のだ ろ う か ,

疑問系で自分に問うが、心すでに彼にあらず。見るだけの恋さえ叶わない革ジャンにリーゼントの彼への関心はとうに薄らいでいたのだ。その思いは、掬った手の指の間からだだ漏れする一方であり、背中さえ見かけることの出来なくなった彼への愛などもはや補充されることはなかった。

>い っ す よ  ・  金山 君 * に  気を う つ し ち ゃ っ た も  ん   ・

言わば、失恋にも相当する出来事。挫けまいと、虚勢をはっているのか、努めて明るく振る舞う、キョーコさん。道民が使い慣れない「いっすよ」と砕けた表現を用い、この程度でこたえてませんよと、金山君へ再び戻ったことを自分に言い聞かす。

> 金 山君 っ  て  ど う して  スポ ー ツ マ ン で  う た う ま くて . ギ タ ーうま く て い い んんで し ょ う

不良への憧れ、流行りの髪型に革ジャン、一瞬でも見てくれだけの彼に浮気した自分を戒めるかのように、人間は内面なのだと、金山君の素晴らしさを並べたてる。

>顔 は サ ル みたい だ け ど  私 の き らい な 顔で は な い

人間金山友彦を大絶賛するキョーコさんでさえ、こと彼の顔に関しては、嫌いな顔ではない、と言ってあげるのが精一杯。猿に似て愛嬌があるとか、お世辞でも言えないような顔であるらしい。

>私 の き ら い な 顔は あ の  並木 の つ り 目 の人あの 顔  大き ら い !

生理的嫌悪さえ感じていそうな、つり目の彼。金山君より下の顔を持ってくるためのスケープゴートにされている可能性もある。

>あの 顔  大き ら い !  そ れに く ら べ る と 金山 君 の 顔 の 方が ず っ とい っ すよ .

つり目の彼は、不細工とかではなく、人を冷徹に観察しているような情愛が感じられない冷めた目を彼女は嫌っているのだろう。人間愛溢れる金山君の方がずっと良いと。

>それ は 良 い 顔 だ っ た ら  ,  山角君 の 顔が  一  番 良 いの だ け ど ・・・・

顔だけだったら山角君。紆余曲折、精神的に成長した彼女は、男選びが顔だけではないことを悟りはじめていたのである。

>ぜっ たい  お ちね ~ ぞ !  石 にく い つ い て で も , ぶ らさが っ てで も .  入っ てみ せる .  
金山君に回帰して落ち着きを取り戻して心身ともに万全の体制が整いでもしたのか、今までになく、強い口調で剥き出しの合格への決意を吐いた、キョーコさん。

どうも今まではっきりとしなかったが、どうやら本気で合格を狙っていることだけは確かなようであった。



29b
                                                                            口だ けで も そ う して

 行か な くちゃ ね  ,  なんだかインク が  う す い なあ ・
もう* インク なく な っ  て きたみ たい っ す よ  .
 西澤 に 入 *る よ う に が んば ろ う ・
もうす ぐ  2:00 に な る ぞ !  しか しね  .  明 日 お き ら れ
 る べ か .   あ!  今 , やな しェ ー カ ワ が 始 まっ た
 きくど  .   千春 っ て お も ろ い  話方 な の よ ね . 口 は 悪 い けど
 自分を か くし て なくて い い ,  だ けど   お っ か に間 い た .
 ち ょ っ と ”お っ か ” と い う言葉 は ち ょ っ と き た なす ぎ る よ.
 で も  千春 は  それで い いの か も し れん  .
  あ りの まま ・  まあ ね ・  千春 は た のしい  ・  金山君 と に て い る ・
 ど こが ?  顔 は 悪 い け ど  、  ギ ターは う ま く 、 歌 が キ レイ だ
 や せ て て . 千春 は スポ ー ツマ ン か どうか し ら んけ ど  金山 君
 は .  ス ポ ーツ マ ン 、  一 番 似 てい る の は  .  顔 が あ ま り
 良 く な くて ・  うた が うま く .  ギ タ ー が うま い  .  な んた っ て コ レ
 だ ね .  し か しね ぇ 、  で も ・  私は そ ん な 金 山君 も そ し て
 千春 も  好 き な ので す よ .  で も ・   大好 き な の です よ .
 だか ら 顔 な んて 気 に な り ませ んよ , ね! 千春 ,
 千春大好 き 、   で も  寝** む たく な っ て つ ら い の で たぶん
 3:0 0 まで は  たぶ ん  ** 8 0 % ・・・ く ら い無理だ と思 います ・ それでは .
                                                                            み なさん  お やすみ ♡

手は追いついていなくとも、言葉だけでも発して威勢だけでも良くしなきゃねと、深夜に今までにない合格への雄叫びをあげた、キョーコさん。言うだけではなく、この先、実が伴ってくるのか。

>西澤 に 入 *る よ う に が んば ろ う ・

妥協は一切なし。上の西澤のみを口にして一点突破の様相を見せる。高校進学自体危うい彼女を、西澤へと突き動かすものはなんなのか。晴れて合格を果たして門をくぐる時にでも、語ってくれることを願いたいもの。

>しェ ー カ ワ が 始 まっ たきくど  . 

ラジオに違いない。略称だと思われる。「シェーカワ」で検索をしてみると沖縄のローカルタレントが表示されるが全く関係ないだろう。キョーコさんは当時夢中になっていたようだが、今の時代に語り継がれる程のものではなかったようだ。

>千春 っ て お も ろ い  話方 な の よ ね . 口 は 悪 い けど自分を か くし て なくて い い ,

虚飾にまみれていない、ありのままをさらけ出す千春が好きだと、彼女。たとえ、多少下品でも。

>お っ か に間 い た .ち ょ っ と ”お っ か ” と い う言葉 は ち ょ っ と き た なす ぎ る よ.

東北弁が変異したものか。松山千春がいかにも多様しそうな言い方。らしくていいと思うが、前々からキョーコさんは言葉の汚さに敏感で潔癖なところがある。手の届かない芸能人だから許容しても、身内には厳しい態度で臨むのだろう。

>千春 は た のしい  ・  金山君 と に て い る ・ど こが ?  顔 は 悪 い け ど

両方顔が不細工なような説明をする。暴力的な言葉に顔も引きずられるようなイメージがあって醜男に見えるのかもしれないが、毛髪が薄くなるまでの爽やかな青年だった頃、ちょうどこの時期の松山千春は疑いようもなく、贔屓目に見ても端正な顔立ちをしていた。金山君を思いやってこその、松山千春サゲなのだろう。それほど金山君への愛で溢れていたのだ。

>一 番 似 てい る の は  .  顔 が あ ま り良 く な くて ・  うた が うま く .  ギ タ ー が うま い  .  な んた っ て コ レだ ね . 

松山千春だってテレビで歌っていい顔のレベルじゃないでしょと、同じ穴のムジナの同類にすることで金山君を引き上げてあげるという優しい心使いの、キョーコさん。内面に惚れ込んでいるからこそなのだろう。

>だか ら 顔 な んて 気 に な り ませ んよ , ね! 千春

金山君好きのあまり、念押しするように、醜男として松山千春を励ますという気づかいを見せる、彼女。ここまでの深い愛、もし別々の高校に進学するとしたら、どうなってしまうのだろうか。

>それでは .み なさん  お やすみ ♡

まさか、数十年後の日記公開を予見していたのではとさえ思えてしまう一節に、喉元が収縮してしまう、僕。

人間顔ではないという嘘偽りのない持論を、本当だからね世の皆さん、と、公に発表してもいいぐらいの気構えがあるという意思表示だったのかもしれない   



30
 19 79 年    1 月 3 0 日  (火 )    1 1: 5 0

  今日 ,   歯 医 者 に 行っ て 来 ま し た  ・
   そして  ・* 奥 歯 をぬ い た.   ち ゅ う し ゃ が
   い たか っ た 、  歯 を ぬ く と き に .  バ キ バ キ っ て
   音 す る の  、 歯 医 者 が こわ い  ・  私 は ま だ 死 に たく
   ね え だ あ  .  こわ いよ ~~~  た す け て 、
 だれ か  私 の歯 を ぬ き に 来 る ヨ!
 ホ ン ト に い や ね  ,   いや い や ! いやだ   .
 今 日 は す ご く  ち り ょ う して い た (今 日 か ら だ け ど)
   歯 が し み だ し て 街 の 中 を あ る い て い て も 歯が 痛 くて
  も う  *ぶ ん なき べ そ的 ふ んい き で  帰 っ て来 、た _
 帰 っ て 来 てか ら も  ず っ とい た か , た  ,   と こ ろ が  ます い が
 きれて き たせ い か   、   ぬ い た歯 が 少 し ず つ
   痛 み だし て き た 、 今 も い た  い 、  で も  あ まり
   気 にする と  ね む れなくな る か ら 、 痛く な い と思 え ば
   い い . 痛 いの はが ま んし つ つ  む し す れば い い の だ  .
   金山 君 は  虫歯 だ ら け だ と思 う け ど 歯医者 に
   行 か な い の か なあ . 元気な 人 だ な あ . 明 日 . 集体あ る か な ?
                                                                                       お やす み 、

歯医者に行って奥歯を抜かれた、キョーコさん。その痛みのほどは、這うような乱れに乱れた文体が物語っていた。

>ち ゅ う し ゃ が い たか っ た 、  歯 を ぬ く と き に .  バ キ バ キ っ て音 す る の

折るわけでもないのに『バキバキ』と音がするわけない。漫画的表現を取り入れて臨場感を伝えたかったのか。口腔の底面が陥没、ブラックホールに吸い込まれていくかのような口腔内の息や唾液、その凄まじさをキョーコさんなりの表現で言葉にしてみたわけなのだ。

>私 は ま だ 死 に たくね え だ あ  .  こわ いよ ~~~  た す け て

つい先日お亡くなりになられた”市原悦子”さんが声を担当していた「まんが日本昔ばなし」のオマージュに違いない。子供から大人まで楽しめるアニメがゴールデンタイムに放映されていた、良い時代。

>だれ か  私 の歯 を ぬ き に 来 る ヨ!

前から言っていた歯医者のバーさまと昔話の鬼を巧みに重ね合わせている、芸の細かい、キョーコさん。友達が少なさそうで寂しそうでも、想像力で楽しめるのだという好例だろうか。

>も う  *ぶ ん なき べ そ的 ふ んい き で  帰 っ て来 、た _

目を腫らしながら帰途についた、彼女。虫歯を完治し、受験への障害は克服。準備が整ったということなのだろう。

>金山 君 は  虫歯 だ ら け だ と思 う け ど 歯医者 に行 か な い の か なあ . 

兄は歯欠け。次男の金山君は目も合わせられないキョーコさんがチラっと見ただけでもわかるような酷い虫歯だらけの歯。育ちの良さそうでがさつそうだった金山一家は、農家として地場産業に大いに貢献。片や、二階の床が抜けそうな廃屋。歯の並びで育ちをどうこ言うのは極論でしかないようだ。

腐り落ちそうな歯をしていながら金山君、元気な人だなぁ、と、集体に胸ときめかせる、キョーコさん、その期待は抜歯した痛みさえ忘れさせてくれるのであった。



 当座の目標は高校合格であることには間違いない。

 しかし、希望が無いと虚無感を訴える、キョーコさん。

 何か一つでも打ち込めるものが欲しい。スポーツでも何でも。今の私にはそれがない。仮に進学したとして、その後はどうなってしまうのだろうかと。

 受験勉強、自ら勉強を淡々と積み重ねていけば良いというわけでもなかった。

 やけに雨が降るなと思っていたら、近所が水で溢れていたという。あの人の家なんて水害レベルの洪水に近しい被害を被ったとか。

 不祥事でもあったのか、卒業間近だというのに、新任の先生がやって来た。

 あらゆる困難を乗り越えながら、受験に突き進むキョーコさん、残された日数は、32日   




つづく…

「災害に見舞われた、少女」廃屋に残された少女の日記'79.14

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