吉祥寺-87
 無残にも壁一面が剥ぎ取られたかのように映画のセット状態の吉祥寺ご住職の自宅二階。

 壁の板はどこへいったのだろうか。

 一部が長年に渡って剥がれ落ちていき、そのたびに檀家さんが後片付けをする。いつしか、横一面が無くなっていたとか。

 ここまで切り口も鮮やかに綺麗に無くなるものなのか。

 廃寺にあたり、引っ越しを決意したご住職。

 年代物の桐箪笥や蔵書を保管していた木製本棚を、今更玄関をくぐらせて階段を下っていくとなると、半日がかりの大仕事となる。

 もう誰も住まないであろう我が自宅。なら壁を取り払って、ショベルカーのアームの先端にワイヤーロープを結んで、桐箪笥や本棚を吊して直接外に出せばいい。

 案外、そうであるような気がしてきた。



吉祥寺-91
 ご住職のパーソナリティが窺えるような品々がないだろうかと、押入れの検証をしてみることにした。

 盆提灯。

 礫に砂にそれらが堆積したもの。結構な量がある。壁のオープン化がされてから相当な月日が経っているということか。



吉祥寺-92
 押入れの上の段に、八重椿本舗の「八重椿セットローション」。

 寺の住職が椿油の整髪料でヘアメイクをしていた?

 ご婦人のものかと思い、調べてみると、八重椿本舗は今も現存していた。ホームページの「八重椿本舗の歩み」には当時の製品新聞広告(昭和35年(1960年))が掲載されており、この商品と同じものがあった。当時のお値段100円。昔の製品広告のラインナップを見る限り、男性用として売り出されていた気配が濃厚。

 僧侶は必ずしも頭を剃ってツルツルにしなければならないということではなく、浄土真宗のお坊さんなんかは半僧半俗のため剃髪の必要は無い。それ以外でも本来剃る必要がありながらも、兼業をしている場合、勤務先の事情で剃っていない場合もある。



吉祥寺-88
 八重椿セットローションの広告が昭和35年。この新聞の痛み具合からしても、大体そのぐらいで時間が止まっているということなのだろう。

週刊スリラー

 スリラー小説の週刊紙とはまた随分と珍しいなと思ったら、違っていた。昭和34年5月創刊のスキャンダル系ネタの週刊誌。創刊の翌年11月には休刊という短命に終わった週刊雑誌であった。



吉祥寺-93
 八重椿の広告もあれば、今では人種差別だと炎上しかねない、唇の分厚い黒人がニタニタ顔でカルピスを飲む広告。この広告、差別であるとの指摘を受け、カルピスが取り下げる1990年まで続いていた。



吉祥寺-94
 リウマチに悩まされ、本まで購入していた、ご住職。



吉祥寺-96
 サンデー毎日



吉祥寺-95
 ナショナルのカーラジカセ、1万8千円、ではなく、よく見たらラジオだけしかない。

 日本初のカーステレオが1964年にクラリオンから発売されたので、1960年頃の雑誌なら、まだ車載はラジオだけが一般的ということになるのか。



吉祥寺-97
 1962年発行。

 四本足だし実に不安定そう。これもレコードだけのステレオシステムのようだ。

 21世紀にもなるというのに、たった壁一枚の向こうに、1960年代で止まった空間がそのままにあるなんて、目の前で起きている奇跡に、目を瞬かせてみた、僕。

 手のひらが真っ黒だ。

 紛れもない、これは現実だったのだ      



吉祥寺-99
 吉兆寺のおしどり夫婦、新婚旅行で金華山へ行ったか。宮城県の石巻にある、山ではなくて、島の名前。島の人口は5人。全員が神社の神職であるという。



吉祥寺-104
 押入れに秘められていた時の地層をさらにまさぐることで発掘した、相馬野馬追の絵葉書。

 相馬野馬追とは、東日本大震災により壊滅的な被害を受けたあの福島の相馬市で行われている祭礼。

 奥様の出身が東北なのか、東北旅行の痕跡を立て続けに発見。



吉祥寺-98
 週刊新潮も。

 夫婦仲睦まじく東北旅行。僕がご住職夫婦を「おしどり夫婦」と呼ばせてもらったのは何もそれだけが理由ではない。

 度重なるご夫婦での広範囲に渡る国内旅行の他、夜の営みにも、ただならぬ尋常ならざるご感心を持っていたことが窺える一冊を探り当てたのである。



吉祥寺-106
名著による 図解 現代性生活の知恵

※五組の夫婦が体験した
ヴァン・デ・ヴェルデの態位実験集

※実物写真による女体世界ランキング

※厚生省版・初夜の心得集


 ご住職が性の右も左も知らない若かりし日の新婚の頃、この本に縋り付くように頼ったか。倦怠期の夫婦間の愛を再びを燃え上がらせるために、刺激を求めたか。

 いずれにしろ、仏に仕える身でありながら、ヴァン・デ・ヴェルデ(誰?)が発案したとかいう体位を毎夜、本堂真横のこの自宅二階で、試し試し、夫婦で励んでいたのかと思うと、そのことが直接檀家の耳には入らないだろうけど、行動の節々にはあらわれるものであり、俗っぽさはどうにも隠しようもなく、見透かされ、信心深い檀家の心も次第に離れていき、求心力を失い、やがて、廃寺、なんてことになったのかなと、丸裸になった壁の跡の残像をしばらくぼんやりと見つめ、この目の前の非日常的な状況にウンウンと頷き、深く納得してしまう僕であった。

 色欲にまみれた生臭坊主、そんな印象を持ち始めていたが、次に押入れの奥より堀り出した一冊で、それらは見事裏切られることになったのだ。

 高貴な華麗なる一族の写真がそのアルバムには収められていたのである    




つづく…


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